ヒーローと悪者
勝った試合にヒーローはいても負けた試合に悪者はいない
by柚紗雪の父
私には父がいました。
いましたといっても亡くなったのではなくて、離婚してあれこれあって縁を切ってしまったので…
大嫌いですが、野球を教えてくれたのも父でした。あと競馬と競艇も(笑)
野球と勉強には厳しくて、特に野球では手放しに褒められたことは無かったように思います。
試合が終わっては帰りの車の中で即席反省会が行われ、帰ってからはお風呂でユニフォームとソックスを洗い、「野球ノート」なるものに試合の結果と良かった点悪かった点などを書き、父に提出する日曜日。
そんな野球への日々の中で、言われた言葉が最初の言葉です。
これは今でも強く頭の中に残っている言葉の一つ。
勝った試合には必ずヒーローがいる。
でも、負けた試合には悪者はいない。だから特定の個人のせいではない。
野球から陸上に変わっても、大学でまた野球をやっても、頭に残る言葉でした。
そう、だから負けた試合で悪者探しをして責任のなすりつけ合いをしてはいけない。
みんな頑張ったし、きっとみんな良くないところがあったはず。
そんな気持ちで。
年齢上大人と言われる歳になって、働き始めてもなんとなく頭のどこかに残っています。
何かが上手くいったときは、みんな頑張ったかもしれないけれど、間違いなく立役者であるヒーローがいる。
でも、その反対の時にやるべきことは、みんなが各々反省して、良くなかったところを見つめて、次に活かしていくこと。
形上の責任はきっと偉い人が取るのだろうけれど、本当の責任なんて、ね。
なんてことを考えていたら、ちょうどこんな記事が目に留まりました。
できれば読んで欲しいのですが、ちょっと引用します。
厳しい道を選んだことで、壁に直面したり、うまく行かないことも出てくるだろう。でも、そうやってもがいて、その上で乗り越えた姿は人に強い影響を与えられるはずだ。簡単な道を歩んで得た「物語」は、読んだって面白くない。
30を過ぎたあたりから、『ヒーロー思考』は欠かせないものとなった。
僕はアンパンマンのようなヒーローになりたい。そのヒーロー像を強く思い描いている。
そして、そこに向かって、パズルのピースをひとつ一つはめていく。 ピースには、「楽しいこと」「苦しいこと」「ゴール」「ミス」・・・さまざまな感情を含んだものがあって、でもそのどれを欠かしても「ヒーロー像」は完成しない。
そう考えれば、人の決断はいつだって「正解」だ。最後のヒーロー像のためには、どんなストーリー(ピース)だって欠かせないのだから。
※上記記事2ページ目より引用
ちょっと考え方を変えれば、自分の世界においてきっと自分が悪者であることもないと思うのだ。
仮に負けた瞬間があるのならば、悪者はいないし、まだ「負け」だなんて微塵も考えていなければ、やっぱり悪者はいないのだ。
辞めるも、休むも、戻るも、頑張るもきっと正解なのだろう。
人生そう上手くはいかないのです。
それでも、幸せになるために生まれてきたのだから、自分の人生では自分はヒーローでいよう。
「あんなにやられたのに、まだ生きてる自分かっけーわ!!」
ということなんでしょう(笑)
では。