適応障害で休職→復職中。

適応障害で病気休職から復職中のアラサー男子が日々を綴ります

「生きる」とは自分以外の死を乗り越えること。適応障害の僕が思うこと。

おはようーろんてぃー。

柚紗雪です。

 

タイトルみたいな話を母としました。

 

本日の目次はコチラ↓

 

 

yuzu-sayuki.hatenablog.com

 

 

~僕等はエリート~

 

僕もあなたもあのスーパースターも受精卵時点では同じく億の倍率を潜り抜けた超スーパーエリートだったんですよね。

 

確かに、両親の行為がきっかけではありますが、

 

何億という精子同士の戦いに勝って、卵子に選ばれたのは紛れもなく自分自身で。

 

そうやって超スーパーエリートとして、誕生した僕等。

 

赤子としてお母さんから生まれて来るまでの胎内では「生きる」ことが唯一の目標でした。

 

でも生まれていざ生きると、色んなことに興味を持つ一方で、色んなことがなおざりになる。

 

 

~悲しみの果て~

 

人間に限らず、生物たるもの、いつかは「死」という終わりがくる。

いや終わっていないのかもしれないけれど。

 

でも現世においてはそれが終わりで。

 

自分がまだ生きている間にも、周りの人は亡くなっていく。

 

自分が生きている限りは、他人の死と向き合うことになる。

 

避けられない必須のイベント。

 

親しい人、知ってるけど親しくはない人、大好きな芸能人などなど…。

 

もしかしたら、他人の死を喜ぶ人もいるかもしれない。

 

けれど、自分の親しい誰かが亡くなった時、きっと悲しみに暮れる。

 

 

~くれた時間~

自分じゃない誰かの「死」は色々な時間をくれる。

 

その人を想う時間

 

をくれる。

 

亡くなって悲しいと想う時間、その人と過ごした思い出を思い出す時間。

 

その人との思い出を語り合う時間。

 

 

その人に充てていた時間もくれる。

 

その人を熱心に介護していたなら、普段それに充てていた時間をくれる。

返してくれると言うのか。ちょっと失礼な気もするけど。

 

それはその人がくれる時間なのだ。

 

だから、失礼の無いように使わないといけない。

 

それがこれからも生きていく人の責務だ。

 

悲しむ時は悲しんで、楽しむ時は楽しむのだ。

 

~乗り越えること~

故人に対して、

 

悲しまないと失礼だし、悲しみ過ぎるのも失礼である。

 

瞬間の悲しみを少しずつ思い出に変えていく。

 

そして、また僕等は生きていく。

 

「生きる」とは、一生懸命に生きた誰かの死を乗り越えていくこと。

 

失った悲しみと、生前得られた喜びや楽しさを糧にして僕等は生きていく。

 

そうじゃないと彼等に失礼なのだ。

 

大丈夫、億の倍率を潜り抜けた僕等ならきっと出来る。

 

 

悲しみの果て

悲しみの果て

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