「生きる」とは自分以外の死を乗り越えること。適応障害の僕が思うこと。
おはようーろんてぃー。
柚紗雪です。
タイトルみたいな話を母としました。
本日の目次はコチラ↓
~僕等はエリート~
僕もあなたもあのスーパースターも受精卵時点では同じく億の倍率を潜り抜けた超スーパーエリートだったんですよね。
確かに、両親の行為がきっかけではありますが、
何億という精子同士の戦いに勝って、卵子に選ばれたのは紛れもなく自分自身で。
そうやって超スーパーエリートとして、誕生した僕等。
赤子としてお母さんから生まれて来るまでの胎内では「生きる」ことが唯一の目標でした。
でも生まれていざ生きると、色んなことに興味を持つ一方で、色んなことがなおざりになる。
~悲しみの果て~
人間に限らず、生物たるもの、いつかは「死」という終わりがくる。
いや終わっていないのかもしれないけれど。
でも現世においてはそれが終わりで。
自分がまだ生きている間にも、周りの人は亡くなっていく。
自分が生きている限りは、他人の死と向き合うことになる。
避けられない必須のイベント。
親しい人、知ってるけど親しくはない人、大好きな芸能人などなど…。
もしかしたら、他人の死を喜ぶ人もいるかもしれない。
けれど、自分の親しい誰かが亡くなった時、きっと悲しみに暮れる。
~くれた時間~
自分じゃない誰かの「死」は色々な時間をくれる。
その人を想う時間
をくれる。
亡くなって悲しいと想う時間、その人と過ごした思い出を思い出す時間。
その人との思い出を語り合う時間。
その人に充てていた時間もくれる。
その人を熱心に介護していたなら、普段それに充てていた時間をくれる。
返してくれると言うのか。ちょっと失礼な気もするけど。
それはその人がくれる時間なのだ。
だから、失礼の無いように使わないといけない。
それがこれからも生きていく人の責務だ。
悲しむ時は悲しんで、楽しむ時は楽しむのだ。
~乗り越えること~
故人に対して、
悲しまないと失礼だし、悲しみ過ぎるのも失礼である。
瞬間の悲しみを少しずつ思い出に変えていく。
そして、また僕等は生きていく。
「生きる」とは、一生懸命に生きた誰かの死を乗り越えていくこと。
失った悲しみと、生前得られた喜びや楽しさを糧にして僕等は生きていく。
そうじゃないと彼等に失礼なのだ。
大丈夫、億の倍率を潜り抜けた僕等ならきっと出来る。